誰にも言わないどうでもいいメモ

どうでもいいことを書いてます

結晶

 三か月前くらいに田中康夫の「なんとなく、クリスタル」を読んだ。舞台はバブル直前の東京。主人公は女、女子大学生。青学なのかどうかわからないがモデル。と設定をごたごたと述べる必要はない。適宜気になる人は検索されたし。この本の特徴は注釈の多さ。右ページに本文。左ページに注釈というなんとも変わった文体のスタイルである。

 

 この本を読むときにはとりあえずパソコンと東京の地図を片手に持ち読まないといけないような気がした。どこそこへ移動した、ここからここまで移動したと書かれてもそれがどこなのかわからないし、地理的なものがイメージできない。つくづく小説というものは田舎者に厳しい。

 

 僕は文化はすべて東京の話と決めつけている。時代錯誤かもしれないけど。でも結局情報番組なんて都内の話ばかりじゃないか。表参道の何かが今話題!と言われても、はて?となるだけだ。文句を言うならローカル番組を見るべきと言われたら何も言えないが。

 

 この小説を読んでもバブルのことはこれぽっちも感じることはできなかった。つくづく貧しい感性を持ち生まれたんだと後悔している。バブルが弾けた数年後に生まれた僕は好景気を知らない。別に何も恨んじゃいない。恨む仕事は他人に譲っているものだから。僕の体はバブルの残滓でできていることは分かった。

 

 それでもバブルの面白おかしい話は僕は結構好きだ。こんなに馬鹿げた金と情熱を注いだんだというおもしろさ。明後日の方向の考えのおもしろさ。やはりヒトは愛すべき動物なんだと再確認。 

 

 

解析とペナルティ

 僕はシティボーイに憧れる田舎のシティボーイの友人にpopeyeを「全部東京の話でしょ」と釘を刺すようなことを言ったことがある。しかし当の本人である僕はpopeyeを読んだことがない。これはエビデンスなんてねーよの二番煎じである。理系の人間がこれでいいのか、と思い、ペナルティ?のために毎月popeyeを買うことにした。

 

 シティボーイを目指してない僕が買うのはいかがなものかと思うだろう。だが、これも社会勉強として読んでみようと思う。他人がどんなことをしているのか。何が流行っているのか。それを知るのに十分な手段だと推測される。そしてシティボーイとはいったいなんなのか。これを読めばシティボーイになれるのか。解析をしていこうと思う。

疾風怒濤の時代

 ゲーテは青年期のことを疾風怒濤の時代と呼んだ。たしかに青年期は荒波に揉まれ揉まれ、いい味がするぐらい揉みこまれる。伯方の塩のCMにでも出すべきだ。トラウマもあの時の淡い恋も性病も依存症も、青年期にイベントとして現れると思う。先の見えない不安も。

 

 川端康成よろしく、先の見えないトンネルを抜けるとそこには何があるのだろうか。町なのか、それともさびれた枯野か、夢の中か。

 

 僕はどうなるのだろうと不安で枕を濡らす夜がある。どうしようもない。季節外れの寒さに身をやつすばかりだ。

 

 なにができるんやろうか。

暇が人を狂わせる

 GWは皆さんは暇でしたでしょうか。僕はとても暇でした。と言いたいところだけど、そこまで暇じゃないけど暇だった。やらねばいけないことから逃げていただけである。とは言っても暇なものは暇。誰からも飲みの誘いもなければ遊びの誘いもない。バスで町へ出かけるくらい。町中にのGWの熱狂をもろとも感じない鈍感な感性をむき出しにして散策をした。ただそれだけでGWが終わった。

 

 なんやかんで遠出をして、清水の三保の松原まで行った。世界遺産になったらしくどんなものか見に行ったががっかりだった。そこまですごいというわけでもなく、ただ海岸から富士山が見える程度の砂浜。ただGWなのか黒山の人だかり。これがGWか。1000円の交通費を払って見た景色は心に残ることもなく忘却の彼方へいくだろう。僕の感性が鈍いのか、期待するほどのものではないということなのか。

 

 最近の趣味は架空の家族を作り、空き缶や飲みかけのドリンクの写真を撮っている。これが無性に楽しい。暇だからなせる妙技である。と自負をしている。でも他人からみたらこんなの狂っているとしか言えない。それでも暇を埋め合わせればそれでいい。

 

 狂人というのはそもそも暇なのだ。みんな狂気を帯びている。それは暇だからだ。それで満足ならそれでいいとおもう。みんな満足な豚になったほうが良いと思う。

 

 暇というのはどんなドラッグ、セックス、アルコールよりも中毒性があると思う。我々は暇なしでは生きていけれない。摂取量が多ければ多いほど、狂人になれる。あの街中の狂ったおじさんがああなったのは暇がそうさせたのかもしれない。人生は死ぬまでの暇つぶし。狂っているのは俺かお前か。

結婚

 今年の八月に僕は23歳になる。大学で複素関数論のテストの最中に23歳を迎えることになってる。ここまでくると年齢はどうでもよくなってくる。ただの記号だ。同じ年の中学時代の友人はもう職に就き、はじめてボーナスをもらうだろう。

 

 23歳に近づくと、そろそろ結婚が頭をよぎるようになる。しかし肝心の相手がいない。バスに乗ると親子連れが仲睦まじく乗車する。ショッピングモールに行けばガラの悪い夫妻が歩いてる。その足元で子供たちは大暴れ。なぜガラの悪い夫婦の子供は三人もいるのだろうか。少子化なんて嘘のようだ。

 

 こんな夫婦を見ると、もし結婚したならば、子供を作るようになるのだろうか。子供を育てるってどういうことをするんだろう。僕は何も知らなさすぎる。無知はあっけなくカタストロフを呼び込む。

 

 根本的な問題として僕には結婚する「資格」があるのだろうか。稼ぐ能力もないし、おまけに奨学金もついてくる。こんな事故物件のような人間は誰が相手をしようか。物好きな世間知らずか、ファンキーな外国人か。それかガチで好きになってくれる人か。まずは相手を探さないといけない。ガチで。

 

 やっぱり一人が一番なのか。独り身となり世俗を離れ隠遁生活。それはそれでいいかもしれない。孤独死を迎えてもハッピーエンドだろう。畳のシミが俺の生きた証だ。

グレートマン

 毎日毎日なにか張り合いがない。久しぶりに大学に「通学」してる。実験はぐだぐだでなかなか終わらず帰れない。理系の運命なのなら仕方ないが。

 

 大学の教員が毎日のようにネットで社会の批判をしている。暇なのか、正義の使者になったのか。彼、彼女の姿は見たことないけど、せっせと批判をし、社会の変革を求めてる。暇なのか。

 

 あるFBIの話をどこかで聞いたことある。日本にはグレートマンが多いのだと。グレートマンというのはいわゆる批評家みたいなものであるらしい。社会に出ず、ひたすらに斜に構え批判をする。そして何も行動をしない。あなたの隣にもグレートマンがいるかもしれない。

 

 社会批判をしても幸せなのか?僕は少なくともそうは思わない。なにかを変えたいなら行動するほうがましだと思う。そういう僕は何もできないけど。弱いやつは死に方も選べない、ワンピースのトラファルガー・ローが言った言葉だ。弱いやつは行動も何もしない者と解釈してもいいかもしれない。社会を変えたいなら優しいテロリストか過激な政治家になったほうがいいだろう。

 

世間には社会批評を素材としたエンタティナ―が跋扈している。グレイテストショーマンだ。いつも僕たちに疲弊とやるせなさを見せてくれる。バリケードを壊すほどの熱狂を生む......

神々の啓示

 大学が始まった。新学期である。桜も散って葉桜に。桜の残骸が溝にたまってる。大学の入り口近くには宗教の勧誘が待ってる。

 

 春先なので新社会人への啓示がネット上にあふれ出してる。「あれしろ!」「これしないさい!」「これをしないから日本は.....」と神々たちが下界の民衆に啓示をしている。~すべきことばかりである。うんざりだ。

 

 じゃ、てめえ社会変えてみやがれとしか言えない。外に出てみませんか。日向に出ると燃えちゃうのか。やはり人間は無力!存在は無だ。

 

 夜、エホバの証人が来た。まさか戸別訪問してくると思わなかった。ここに神あり。神はまだ死んでなかった。iPadを聖書にしてやってきた。相手は女性、シスター二人できた。iPadを開き、聖書のある章を読み始めた。でも、心にはしみこんでこない。すぐさま「ごめんなさい、モンハンしてるんで」と言い、帰ってもらった。

 

 本当の神は、歩いて迷える僕たちの前に現れる。外に出てる。もう少しに日向にでよう。