誰にも言わないどうでもいいメモ

どうでもいいことを書いてます

君たちはどうイキるか

 君たちはどう生きるか?そういう本が最近ベストセラーらしい。僕のような斜に構えすぎて水平に近い人間はタイトルから説教臭く買う気にならないが。

 

 そろそろ大学が始まる。鬱屈とした大学生活。色気のない大学生活である。地方の大学はなんと寂しいことか。寺山修司ならもう書を捨てに捨てまくり、町へダッシュで駆け出すだろう。それほど何もないのだ。

 

 理系の人間だけど、たいして勉強ができない。このさきどうなるんだろう。モラトリアムを伸ばすために大学院に行こうと思うけど、たいして勉強ができないためまともな論文もかけず、食えない博士号を手に入れてしまうのだろう。そういうところで何か学歴が役にたてばいいなと思い、旧帝大に院進できればなんとかなると、安易な考えを持っている。でもそれを達成する能力もないのだ。

 

 この先どうなるのか。冬からの鬱な気分を引きずったまま専門の勉強をせず、ただただ小説を読み、美術館へ足しげく通う。それもいいけど僕はどうなるんだろう。奨学金の返済額680万というのを知り段々と恐怖を感じる。いいねえ勉強もせず親の金で都内のFラン大学に通う人は。贅沢な遊びだとおもう。

 

 でも僻んじゃだめだ。これはすべて僕の実力不足。都内の国立大学に行けなかった僕が悪い。巨額の金を稼ぐ能力がないからだ。すべての不都合はすべて自分の能力不足。東京喰種のセリフが僕を納得させ、奈落へ落とす。

 

 もう少しポジティブに生きようと思う。筋肉でも鍛えるか。

葬式にかける音楽

 死ぬときってどこからか音楽が流れてくると持ってる。僕の場合はか笑点のテーマだと。心肺停止しても一応は意識はあるらしい。それなら楽しい音楽がいい。葬式中にはBohemian rhapsodyを流すして、荼毘に付されるときは、Deep purple のBurnが盛り上がるだろう。

 

 実家の祖母が病院に運ばれ入院し、危篤になった時、臨終の際に立ち会ったことがある。医師の病状説明の時、心電図が「ピー」と音を鳴らし心拍数の数値が0になった。それでも、医師は説明を続けていたか混乱したけど祖母はその時点で亡くなっていたらしい。あっけない。受け入れる時間もくれず亡くなった。どういうわけか悲しむ余地を与えず、むしろ清々しい気持ちだった。こんなにもあっけないものなのかと。

 

 葬式はものすごく荘厳である。坊さんのお経をいい声で唱える。お経はよく分からない。何を言ってるのか。でもものすごく心地が良い。

 

 葬式くらいもっと盛り上がってほしいというのが個人的な思い。葬式中にEDMかけてみんなで焼香投げて酒飲んで盛り上がるのも良し。みんなで集まってワイワイしてくれたほうが三途の川も気兼ねなく渡れる。

 

 あまりにも楽しそうなら地獄から戻ってくるかも。

数字と昔話をすること

 数字とは不思議なもので我々に過去のことを思い出さしてくれる。例えば9.11と言えばアメリカの同時多発テロのことを思い起こすし、3.11と言えば東日本大震災のことを思い出させる。僕は普段、理系学部の人間なのでいろんな数字と出会うのでいろんな過去のことを思い起こさせられる。

 

 例えば、「2008」という数字は僕が中学に入学した年で中学時代のことを思い出させる。中学時代はいろんなことがあったな、あんときもうちょい勉強すればよかったなーって。「1月31日」はとある高校を中退を決意した日。たしか東京事変が解散したってニュースのほうがショックが大きかった。

 

 こういう話を折に触れて友人とかに話す。過去の話をするのはすごく簡単で脳内の棚から文章を引き出し、口から提示する。しかし僕は、毎度同じ話をするらしく友人から「その話何度目?」と定型文を返される。僕はもうボケてんのか。

 

 昔苦労したことは大抵何年かするとなぜか面白おかしく話すことができる。だから昔の話を何度もしてしまうのだろうか。だからか、おじさんが若い人に苦労しろよと喧伝するのは。これがもしかして老害と言われてしまう行動なのだろうか。僕もとうとう老害呼ばわりになってしまうのか。

 

 自分の話なので作り話と受け取られてしまいそうだけど、実際に起きた話だ。もしかして今の苦労もこの先笑い話としてネタになるのかと思えば何とか乗り切れそうな気がする。そう思いながら苦難上等の選択をしているけどいらない苦労のほうが多い。

 

 

 

流行、アイコン

 今、ポプテピピックが「流行ってる」みたいですね。と言ってもネットの境界を離れるとポプテピピックのポの字も聞かない。結局ネット上だけでもてはやされているのか。これほど、ポプテピの画像を使い消費されているのに外では見かけない。住む世界が違うからなのかもしれないが。

 

 流行とは恐ろしいもので、流布されると周りのみんなはそれをウイルスにやられたかのようにマネしだす。それをマネしなければ「遅れている」と烙印を押される。流行にのることはコミュニティに属しているものに疎外感を感じさせることもできる恐ろしい儀式なのだ。

 

 日本には「○○顔」という顔面分類法が確立されている。塩顔、しょうゆ顔、ソース顔。なぜか調味料の名前で区別し、グループ化する。何年かおきに顔の好みの波みたいなのが来て、そのアイコンが特集され流行りだす。同じ平たい顔族なのに分類されない僕のような添加物顔のヒトはどうすればいいのだろうか。

 

 ひと昔の番組なのか今でもやっているのかもしれないが、スタイリストの人が街角の人のファッションチェックするというコーナーがあった。某人曰く素人に向かって「全然ダメ、流行りのこれを着ければ」と他人の着ているもの全否定するのだ。スタイリストなのに流行りにのっかるなんてと母親が買ってきたものしか着ない人間ながらに疑問を抱いていた。服装なんて流行追いかけてたらつまらないと思う。そういう本流への反動から、原宿系やゆめかわいい系が生まれてきたなのかもしれない。これも結局体系づけられているので流行してしまっただろうか。

 

 流行っていったい何だろうか。地方に住んでる人間は東京のような原宿があるわけでもないし、流行という船に乗るための切符を持てない。結局、音楽や生活必需品と違ってみんなが手に入れられない。流行と決めつけるには遠く北海道の漁師がニューエラとエアーマックスを履いて漁に出てることが必要十分条件ではなく、東京などの大都市で十分なのだ。

 

 服と違って顔はランダムに発生するイベントなので全国的に流行すると言える。もし友人が「今、塩顔系のイケメンと付き合っている」と言えばそれは彼女は流行にのっかているのだなと解釈できなくもない。ブームが過ぎ去れば彼は「時代遅れ」の顔になってしまうとも解釈できる。

 

 流行は恐ろしいものとつくづく思う。流行の顔でなくてよかったのかどうかわからないが、モテないという事実は確か。

 

今夜はブギーバック

去年、小沢健二を聴いて衝撃を受けた。彼が日本に帰ってきてMステに出たときのことだった。そのころ、僕は大学の講義も終わり実家へ帰省するために大阪から帰省した。その日は大渋滞が起き、夕方に帰れるはずだったのについたのは夜。ちょうど実家に帰って晩御飯食べているときに曲を聴いた。

 

「僕らが旅に出る理由」と「流動体について」を歌ってた。

 

小沢健二なんて知らなかった僕はこの衝撃を受けてほかの曲を聴いた。だからと言ってものすごいファンになったとは言えないけど、体内のどこかにその存在があるような気がする。

 

自分が生まれる前にヒットした歌は、今の歌の様式と違っていてとても面白い。むしろ今の歌よりも、自分が生まれる前の歌が心地よい。なんでだろう。

 

ゆっくり歌っているからだろうか。最近のようなスピード感あってドゥインドゥインEDMみたいな踊るための音楽でないからむしろ新鮮。歌詞もしっかり頭に入ってくる。恋とか西野カナみたいに揺れてるわけではなく、ある風景や体で感じた風の心地について語りかけているような気がする。(流動体については)

 

僕は今夜はブギーバックできないのだろうか

 

 

 

 

寝つきが悪く

 最近ストレートネックかなんかで首を痛めた。そのせいか肩甲骨や首の近くが痛み眠れない。夜中の二時ぐらいまで布団の中でうずくまってる。

 

 元々寝つきが悪いほうなのは確か。目を瞑ってもなかなか寝れない。そしてスマホとか見て目が冴えて眠れなくなる。最近は首の痛みがそれを加速させもっと眠れない。

 

 寝るときはだいたい考え事をしている。明日何するかとか。でもそうしても最近は眠れなくなってる。そういう時は妄想にふける。妄想の海に飛び込む。

 

 妄想って何をするのかというと、ワンピースの登場人物になってみたり、宇宙遊泳してみたりといろいろだ。中二病臭いかもしれないけど、これがいらないことを考えて不安になって眠れなくなるよりましだと思う。今日もルフィと戦ってるし四皇も相手にしてる。宇宙空間で光速で泳いでみたり、ビデオみたいに時間を巻き戻したし早めたり、空間を曲げてみたり、パラレルワールド作ったり、海王星に降り立ってみたりいろんなことができる。意外とそういうのが面白かったりする。

 

 現実がつらいからこそ突拍子もない妄想にふけるのかもしれない。妄想の中なら何でもできるし、宇宙の理になれる。

 

 妄想と現実の区別がつかなくなったらいよいよかもしれないけれど、それもそれで楽しいかもしれない。誰にも支配されない海賊王になれるし。

Battle of SNS

SNSとはつらい世界だ、と最近感じ始めた。遅すぎるが。ツイッター、ライン、フェイスブック、インスタグラムなど、多くのSNSがあって世界を形成している。世のなかにはごまんと多くの人類がいてその中に数え切れないほどSNSをやってる人がいる。

 

僕がツイッターを始めたころは、「いいね」ではなく「ファボ」だった。ハートではなく星だった。そのころはどんなツイートしてもいいねがファボが着くこともなかったし、なんかフォロワーとのつながりも薄かった気がする。なんだかよくわからないけどいろんな人がつぶやいてそれがだらだらと流れる様式だった。そしてある大きな出来事が起きて、日本でもツイッターが流行ってきたというのが自分の感覚である。

 

ツイッター歴は長いほうだと思うけど、昔と今のツイッターは結構大きいな違いが自分としては感じ取れる。

 

今はもう、ツイッターは魑魅魍魎としておぞましく、パンデモニウムに迷い込んだように錯覚する。精神的な苦痛から来るツイート、自分の好意対象を賛辞するツイート、根拠があるのかないのか分からないライフハックツイート、政治批判ツイート、他人の揚げ足をとり市中引き回しツイート。これらの弾丸が私たちユーザーの頭上を飛び交っている。リムったりリムられたり、凍結させられたり。SNSは戦場となってしまった。

 

別にそういうツイートするのは構わないと思う。でもそれは幸せにつながるのかと思ってしまう。ちょうどいいガス抜きぐらいならいいのかもしれない。毎日政治批判をしているアカウントを見ると「生きてて幸せなのか?」と思ってしまう。海がきれいだから見に行きなよと言いたくなる。

 

じゃツイッターなんてやめてしまえばいい。そう思われる。そう思うでしょう。確かにそうだ、やめちまえばいいんだよ。やめられない理由がなくやめられないでいるからやめられない。なにかもう少しまっとうな理由を探さなければいけない気がする。その方針のほうが攻撃的な人も納得するんじゃないか。

 

ここは戦場。だれも見向きもしない閉じた世界の戦争。何を叫んでも現実に届くことはほぼなく、四角い画面とにらみ合い、日々を消耗していく。やめられないとまらないスナック菓子のように。