無題

ふらふらしています

彼女いない歴

漢文の素養がある方は歴史の「歴」は「広い」って感じの意味で昔のことをしたためているという意味ではないということを知っているだろう。正確には彼女いない史。

 

彼女いない史22年の僕はそろそろ四半世紀になる。22年もなれば龍馬伝のナレーションみたいに「彼女いない史20年のことじゃった!」みたいになんかすごいことがあった感じに言えそうだ。なんのこたァない、この年は虫歯が6本見つかった。歯磨きがものすごい下手だったということに気付かされたぐらいだ。

 

彼女作ればええやん、なんてストレートをみぞおちにラッシュしてくる人もいるがちょっと待ってほしい。作ろうと思って作れるなら苦労しない。というかどうすればいいか分からないんですよ。というか自分のことで精一杯なのに他人まで気にかけるのは少し僕には難しい。彼女作ってしまえば長い間紡いできた彼女いない史がここで終わってしまう。R.I.P.

 

司馬遷が宦官になってずっと史記を書いていったように僕もおそらくこの先もずっと彼女いない史を紡いで行くのかもしれない。

 

彼女いない史22年、そろそろ老舗の仲間入りだ。

 

 

 

 

 

ストロングゼロ依存症

今日からもうストロングゼロ飲むのはもうやめよう。ストロングゼロは絶対体に悪い!

 

そう決意して今月3本目ストロングゼロを飲んでしまった。ついでに取って買ってしまった。でも、もうやめよう。次は絶対買わない。半額の惣菜を買いながらそう思った。

 

でもどうせまた買っちゃうんだろうな...

だったら鬼ころし買おうかな

 

ストロングゼロってあらゆるものを治しちゃうよね。ストレス、疲労、精神的なめんどくさいこととか。全部吹き飛ばす。これって薬物なんすよ。クスリなんだよ。ヤクブーツなんですよ。

 

一度摂取したらやめることが出来ないクスリ。だって500mlあって150円くらいで買えちゃうんだぜスーパーだと。そりゃ半額の惣菜買ったらストロングゼロも付いてくるでしょ。

 

ストロングゼロとか氷結とか現代を生きる必需品になってる。ポケモンのげんきのかたまりみたいなもんなんだ。現代社会は常に瀕死の状態なんだよ。そりゃ必要なものですわ。

 

でもオレ、次は絶対辞められると思うんだストロングゼロ。もう絶対買わねぇ。

 

(この文章はストロングゼロ飲みながら思いました)

 

 

 

原宿とファッション

表参道とか原宿とか渋谷とかオシャレで若い人が多いですよね。というかそれ以外何があるんだって思う。その道を今回オシャレとは何にも知らない僕が歩いてしまった。

不躾ながら高校卒業するぐらいまでは母親が買ってきたユニクロの服をきていた。母親のセンスが幸いしたのか自分から見て普通の感じだったのかなと思う。

しかし大学に行くようになってからは母親が買って送ってきてくれるわけでもなく自分で買わないといけない。普段からPOPEYEやメンズノンノ読むわけでもないしファッションのファの字も知らないからトレンドとか全く知らない。

東京なんてすべてがトレンドじゃないですか?なに着ても最先端だしなに食べても最先端だし。それがどんどん日本全国津々浦々に染み渡り中規模都市のヤンキーぽいイカつい兄ちゃんたちがセカンドバッグもって膝破けたズボンを着るようになる。いや、オシャレに気を使う人ならばズボンじゃなくてパンツでしょとここで指摘するかもしれない。

表参道原宿は歩く人全てがオシャレに見えてしまう。自分が歩いているのが恥ずかしく感じる。目の前のランドセルに将棋の王将の駒のストラップ付けた小学生ですらオシャレにみえる。地方から出てきた社会のモブのような僕はいつ排除されてもおかしくないし、もしカラーギャングがいるならば囲まれて「お前はここのシマのもんじゃねぇ!」とつらい目にあってしまう世界線もあったかもしれない。

オシャレって人の目を気にしてやるもんじゃないよねって悟りを開くしかない

 

朝のマクドナルド

久しぶりに朝食をマクドナルドで食べた。毎度の事ながら受付は出稼ぎ労働の外国人である。いつものように齟齬をきたしながらメニューを頼み注文を待つ。アイスコーヒーとチキンクリスプマフィン。我ながらいい打順だと頭の中の井之頭五郎も呟きながら腹を空かせている。

 

プレートをもって二階に上がって席を探すとおじさん、おじさん、おじさん。溢れんばかりの中年サラリーマンやおじさん。朝のマクドナルドってなんか一触即発の雰囲気ありませんか?

 

京都のマクドナルドで朝食とった時は観光客もさることながらおじさんも引けを取らず多かった気がする。おじさん朝強い。

 

丸々と太った不健康なおじさんからみすぼらしいおじさん、ちょっと重役ぽいおじさん。中年サラリーマン。目の前のおじさんは夜の居酒屋で鍛え上げた自慢の腹を突き出しハンバーガーにがっつきながら新聞を読んでる。目の前に見える新聞の広告欄には「健康生活」と書いてある。そっちを読めよとつっこみたくなる。

 

他のおじさんは競馬の新聞読みながら熱心にチェックを入れてる。目が死んでる。自我を殺してる姿が見える。金のためなら自我をも殺すおじさんの姿は禅を極めた禅僧のようなたたずまいだった。達磨大師が禅の極意は何だと聞かれて「わかりません」と答えたようにあのおじさんも競馬の極意は何だ聞かれても「わかんねぇ」と答えるはずだ。なけなしの金を掛けて一瞬一瞬を生きているのかもしれない。おじさんはいつも命懸けだ。

 

 

 

 

私語と寸止め

学校生活を長年していると講義中の私語なんてあって当たり前のようになる。塊になってすごい喋る。講義始まっても喋る。すげえ喋る。こそこそと妖精のように喋る。

 

それで教師に「静かにしろ」と言われるか、ほっとかれて見捨てられるか。

 

僕個人としては目の前のことに集中したいから私語はやめて欲しいんだが、注意するとなんか仕返しが来そうで怖いからできない。「モブの癖に注意してんじゃねぇよ」って感じで写真撮られてネットリンチに会いそうだ。というかそんな相手にする気にもならないけども。

 

注意されるまで喋るなんて、逆に凄くないか?周りは能面のような顔で講義聞いてるか寝てるかツムツムしてるかどれかなんだよ。めっちゃ目立つよ。万が一、注意されて評価下がったり、最悪の場合、単位あげねぇ!ってやられたりする。彼らはギリギリを生きて今日も死線をくぐり抜けてる。どこからともなく彼らは様々な講義に現れる。ゲリラなのだ。

 

「お前そんなの気にすんなよ」

という寛大な保守がおられる。心が宇宙よりも広くブラックホールより深い御仁なのだろうが僕はそんな聖人君子じゃない。心が狭小住宅のように狭い。考えてもみてほしい、周りで羽虫やハエがブンブンと動き回れば不快指数は極限まで上がるだろう。これは鬱陶しい以外の感情がわかない。

 

さて、今日もギリギリを生きてるゲリラ達と講義を受けてる。こちらもヒヤヒヤしながら「あぁ、あいつら注意受けちゃうのかな...」と巻き込まれる僕の身にもなって欲しいな、と思いながら僕も同じ死線を生きてる。ギリギリまで攻める。寸止めと一緒だ。いき過ぎてもだめだし手加減が難しい。もしかして彼らはギリギリ感を感じたいからあんなことやってんのか?って思い始めた。こんなハイテクノロジーが発達したこの平成も終わろうかとするこの時代に、他人が大勢いる静かな場所で発話で会話するメリットって何なんだ??LINEとかでスタンプ押しまくってLINEで会話すればよくないか?

 

こんなにも喋り、寸止め続ける。喋りが好きならきっと落語家になれる。座布団10枚、人間国宝文化勲章総ナメや。僕も寸止めで鍛え上げた技術を駆使した噺を聞きに行きたい。だからそのまま寸止めをやめないでおくれ。夢はでっかく大きくだ!

 

よそう、また夢になっちゃいけねぇ

 

人を褒めるということ

人を褒めるのは難しい。優しいとか、思いやりがあるとか、数え切れないほど褒め方のパターンがあるはずだ。

容姿を褒めるのは簡単で「可愛い」とか「綺麗」とか「カッコイイ」とか見たまんま本能で適当なことを言えば済むから簡単である。

しかし、人格とか人となりを褒めるのは至難の極み。

 

小学生の頃、人を褒めようとかいう道徳みたいな価値のない単元の授業の中で人を褒めなければいけなかった。

 

生憎、他人のことなど知らぬ存ぜぬ、という小学生生活を送っていた僕は不可侵条約を結んでるわけでもないのに、他人の輪にも入ることすら許されて無かった。そのため、相手も僕も、互いに褒めることが出来なかった。僕を褒めることになる相手の身にもなってみろ、こんな生き恥なんてない。クラスの除け者を褒めることは十数年生きててないはずだ。

 

「なんか最近やった?」と聞かれ、答えることがなかったので

「洗面所の石鹸を吊るすやつを作った、前のなんかの授業でな」と僕は適当にありのままを答えた。そうすると

「じゃ、手先が器用ですごい、って書いとくわ」と相手はそう言いながら、ざら紙に印刷されたプリントにそのまま書いて提出した。

 

手先が器用

 

これ程素晴らしい褒め言葉はないだろう。僕は手先が器用なんだ!何にでも出来るじゃないか!手先が器用なら!という肯定感を感じるはずもなく僕は相手を「誰にでも優しい」と書いてプリントを提出した。

 

数年後この人は僕の実家の壁が灰色なだけで「貧乏人!」と罵る人でもある。