誰にも言わないどうでもいいメモ

どうでもいいことを書いてます

裏技

 ゲームをやったことある人ならほとんど探したであろう裏技。無限にアイテムが増えるとか、裏の世界に行ける方法とか、いろいろな裏技がある。

 

 小学生時代にパソコンでポケモンの裏技を探し、何度も試したことは誰にでもあるだろう。ガセネタにつかまされたり、バグって裏の世界から抜けれなくなったりしたこともある。裏技につかまされ無様な結果である。

 

 誰もが楽をしたくショートカットを探したり、ずるをしたくなる。困難なことは楽なほうがいい。犯罪にならないなら。勤勉な人ほど馬鹿をみることが多い。無慈悲なことだが。

 

 青学の学生が親のコネで就職したとかで相当叩かれている。かわいそうなことでもあるが。親のコネで働けるならいいにこしたことはない。なぜそこまで叩くのか?答えは簡単で「ずるい」からだ、傍から見たら。そりゃ引きずり下ろしたくなる。そこまで彼をそうさせる。起爆剤に火の粉が降りかかったのだ。爆発四散すれば彼の勝ち。人の不幸は蜜の味。その蜜はプーさんのように手を壺に突っ込んで食べたくなる味がする。病みつき間違いなし。クリストファーロビンもその誘惑に負けしまうだろう。

 

 誰も裏技を探すことをしなくなった。裏技は卑怯だから。裏技ではなく血豆ができるほどの努力をパフォーマンスし、観衆に見せることが正当なのだ。観衆は人のもがき苦しむ姿を待ち望んでいる。それが演技、いわゆるズルなら、観衆は怒り狂う。ズルはいったいどこにあるのだろう。ワザップは教えてくれるだろうか。

 

 

グレートマン

 毎日毎日なにか張り合いがない。久しぶりに大学に「通学」してる。実験はぐだぐだでなかなか終わらず帰れない。理系の運命なのなら仕方ないが。

 

 大学の教員が毎日のようにネットで社会の批判をしている。暇なのか、正義の使者になったのか。彼、彼女の姿は見たことないけど、せっせと批判をし、社会の変革を求めてる。暇なのか。

 

 あるFBIの話をどこかで聞いたことある。日本にはグレートマンが多いのだと。グレートマンというのはいわゆる批評家みたいなものであるらしい。社会に出ず、ひたすらに斜に構え批判をする。そして何も行動をしない。あなたの隣にもグレートマンがいるかもしれない。

 

 社会批判をしても幸せなのか?僕は少なくともそうは思わない。なにかを変えたいなら行動するほうがましだと思う。そういう僕は何もできないけど。弱いやつは死に方も選べない、ワンピースのトラファルガー・ローが言った言葉だ。弱いやつは行動も何もしない者と解釈してもいいかもしれない。社会を変えたいなら優しいテロリストか過激な政治家になったほうがいいだろう。

 

世間には社会批評を素材としたエンタティナ―が跋扈している。グレイテストショーマンだ。いつも僕たちに疲弊とやるせなさを見せてくれる。バリケードを壊すほどの熱狂を生む......

神々の啓示

 大学が始まった。新学期である。桜も散って葉桜に。桜の残骸が溝にたまってる。大学の入り口近くには宗教の勧誘が待ってる。

 

 春先なので新社会人への啓示がネット上にあふれ出してる。「あれしろ!」「これしないさい!」「これをしないから日本は.....」と神々たちが下界の民衆に啓示をしている。~すべきことばかりである。うんざりだ。

 

 じゃ、てめえ社会変えてみやがれとしか言えない。外に出てみませんか。日向に出ると燃えちゃうのか。やはり人間は無力!存在は無だ。

 

 夜、エホバの証人が来た。まさか戸別訪問してくると思わなかった。ここに神あり。神はまだ死んでなかった。iPadを聖書にしてやってきた。相手は女性、シスター二人できた。iPadを開き、聖書のある章を読み始めた。でも、心にはしみこんでこない。すぐさま「ごめんなさい、モンハンしてるんで」と言い、帰ってもらった。

 

 本当の神は、歩いて迷える僕たちの前に現れる。外に出てる。もう少しに日向にでよう。

 

 

君たちはどうイキるか

 君たちはどう生きるか?そういう本が最近ベストセラーらしい。僕のような斜に構えすぎて水平に近い人間はタイトルから説教臭く買う気にならないが。

 

 そろそろ大学が始まる。鬱屈とした大学生活。色気のない大学生活である。地方の大学はなんと寂しいことか。寺山修司ならもう書を捨てに捨てまくり、町へダッシュで駆け出すだろう。それほど何もないのだ。

 

 理系の人間だけど、たいして勉強ができない。このさきどうなるんだろう。モラトリアムを伸ばすために大学院に行こうと思うけど、たいして勉強ができないためまともな論文もかけず、食えない博士号を手に入れてしまうのだろう。そういうところで何か学歴が役にたてばいいなと思い、旧帝大に院進できればなんとかなると、安易な考えを持っている。でもそれを達成する能力もないのだ。

 

 この先どうなるのか。冬からの鬱な気分を引きずったまま専門の勉強をせず、ただただ小説を読み、美術館へ足しげく通う。それもいいけど僕はどうなるんだろう。奨学金の返済額680万というのを知り段々と恐怖を感じる。いいねえ勉強もせず親の金で都内のFラン大学に通う人は。贅沢な遊びだとおもう。

 

 でも僻んじゃだめだ。これはすべて僕の実力不足。都内の国立大学に行けなかった僕が悪い。巨額の金を稼ぐ能力がないからだ。すべての不都合はすべて自分の能力不足。東京喰種のセリフが僕を納得させ、奈落へ落とす。

 

 もう少しポジティブに生きようと思う。筋肉でも鍛えるか。

葬式にかける音楽

 死ぬときってどこからか音楽が流れてくると持ってる。僕の場合はか笑点のテーマだと。心肺停止しても一応は意識はあるらしい。それなら楽しい音楽がいい。葬式中にはBohemian rhapsodyを流すして、荼毘に付されるときは、Deep purple のBurnが盛り上がるだろう。

 

 実家の祖母が病院に運ばれ入院し、危篤になった時、臨終の際に立ち会ったことがある。医師の病状説明の時、心電図が「ピー」と音を鳴らし心拍数の数値が0になった。それでも、医師は説明を続けていたか混乱したけど祖母はその時点で亡くなっていたらしい。あっけない。受け入れる時間もくれず亡くなった。どういうわけか悲しむ余地を与えず、むしろ清々しい気持ちだった。こんなにもあっけないものなのかと。

 

 葬式はものすごく荘厳である。坊さんのお経をいい声で唱える。お経はよく分からない。何を言ってるのか。でもものすごく心地が良い。

 

 葬式くらいもっと盛り上がってほしいというのが個人的な思い。葬式中にEDMかけてみんなで焼香投げて酒飲んで盛り上がるのも良し。みんなで集まってワイワイしてくれたほうが三途の川も気兼ねなく渡れる。

 

 あまりにも楽しそうなら地獄から戻ってくるかも。

ネット上の日本ゾンビ

 このフレーズはもうおととしのことになるのだろうか「日本死ね」という言葉が生誕したのは。とある国会議員があるブログを紹介して有名になったと思う。それ以前からも「日本は終わった」「これだから日本は」という似たようなフレーズはもはや季語のように、時節のあいさつのように使われている。他にも「日本は異常」とかエトセトラ。

 

 はっきり申し上げるとこれらのフレーズが僕は嫌いだ。断わっておくと僕は左翼のアナーキストでもないし右翼の活動家でもない。毎日のように政治に関してつぶやくことしかしない囚人でもない。ただのボンクラ学生。いわゆる「脳内お花畑」と揶揄されるかもしれない。別に気にしはしないけど。むしろこの時期の僕の脳内お花畑はケシの花で咲きほこり満開で全盛期を迎えている。なので毎日のように日本を殺している人は上記下記に記していることはあまり気に留めなくてもいい。

 

 どうしてこれらのフレーズが嫌いなのか。それは僕もこの日本に住んでいるから、という身勝手な理由だ。みんなが言う日本てどこのことなのか。東京?大阪?それとも北の網走なのか?南の石垣島のことなのか?日本は意外と面積も広く細長い国土だしいったいどこのこと?と思う。つまり、自分の属している社会の問題を一気に僕の属している領域まで広げて侵略している感じがして嫌悪感を覚える。まさに身勝手な理由でしょ。

 

 僕はまだ社会に出てない。なので日本死ねと叫ぶ人たちの気持ちがわからない。またお花畑発言。なぜ日本は他国に比べ異常と言われるのか。僕は外国へ行ったことはないけど自分なりに考察すると高校時代の現代文で読んだ原研哉のデザインのデザインという評論で「世界地図を縦にして文化の伝播をパチンコ玉として考えるとゴールは日本になる」という感じの考察がしっくりくる。例えばギリシャパルテノン神殿の柱と法隆寺の柱の類似性とか。(ここは記憶が曖昧なので間違ってたら教えてください) そう考えると日本は他国に比べて遅れているのかなと、パチンコ玉の終着地点ならば。

 

 日本に対して「死ね」「異常だ」って血反吐吐くほど絶叫してもらっても構わない。文句言えば言うほどみんな賛同しリプライする。そしてネット上に広がりリプライが来てそれから自らの不幸自慢がつらつらと連歌のように重なる。それを見るのはとても苦痛を感じる。文句を言うだけでは何も解決しないんだけど。

 

 何度も殺されてサンドバックになっている日本。今日も殺されていく日本。異常者扱いをされる日本。けれども日本は死なずゾンビのようにふらふらと歩いている。バイオハザードのクールジャパン。

 

 怒りに固執してはいかんという宗教の教えがここで効いてくるのか。それが難しいんだけどね。

数字と昔話をすること

 数字とは不思議なもので我々に過去のことを思い出さしてくれる。例えば9.11と言えばアメリカの同時多発テロのことを思い起こすし、3.11と言えば東日本大震災のことを思い出させる。僕は普段、理系学部の人間なのでいろんな数字と出会うのでいろんな過去のことを思い起こさせられる。

 

 例えば、「2008」という数字は僕が中学に入学した年で中学時代のことを思い出させる。中学時代はいろんなことがあったな、あんときもうちょい勉強すればよかったなーって。「1月31日」はとある高校を中退を決意した日。たしか東京事変が解散したってニュースのほうがショックが大きかった。

 

 こういう話を折に触れて友人とかに話す。過去の話をするのはすごく簡単で脳内の棚から文章を引き出し、口から提示する。しかし僕は、毎度同じ話をするらしく友人から「その話何度目?」と定型文を返される。僕はもうボケてんのか。

 

 昔苦労したことは大抵何年かするとなぜか面白おかしく話すことができる。だから昔の話を何度もしてしまうのだろうか。だからか、おじさんが若い人に苦労しろよと喧伝するのは。これがもしかして老害と言われてしまう行動なのだろうか。僕もとうとう老害呼ばわりになってしまうのか。

 

 自分の話なので作り話と受け取られてしまいそうだけど、実際に起きた話だ。もしかして今の苦労もこの先笑い話としてネタになるのかと思えば何とか乗り切れそうな気がする。そう思いながら苦難上等の選択をしているけどいらない苦労のほうが多い。