誰にも言わないどうでもいいメモ

どうでもいいことを書いてます

虎と馬から逃げる

 僕は小学二年生のころ同じ班の女子からほぼ一年「気持ち悪い」と言われていた。それから女性に対して少し億劫になってしまった。いわゆるトラウマである。今ではそこまで億劫になることはないけどやはり昔のことが尾を引いてる。あまり積極的になれない。

 

 学校はトラウマ製造工場だとつくづく思う。教師は必ずヒステリックを起こしたように説教していた。経験上男女問わず、そして小学校が一番激しい人が多かった。毎日ヒステリックが飛び交う教室にいるとなんだかそういう場所にいるのが嫌になる。やはりここでも過去の事が尾を引いて、高校を一度やめてしまった。酷い高校だった。

 

 夢の中でたまに過去いた場所にいることがある。特に中退した高校の校舎にいることが多い。よほど精神的ダメージを受けいたことがうかがえる。校舎にいることだけでもかなり恐怖を感じる。その周りには嫌いだった同級生たち。教師のヒステリックを起こす原因たち。そこから、あの日の出来事が映画のように夢の中で進んでいく。場所を変えて、体育館、研修施設。色んな日のことを思い出させるように。夢から目覚めるとまだ高校にいるような感覚がある。大抵、この類の夢を見ると戦地から帰ってきて悲惨な目にあった元兵士のような目覚め方をしてしまう。まだあの戦地にいるかのような錯覚までもする。

 

 今では、過去のことは笑い話して済ましてる。失敗なんて笑い話になるならいいかな、という気持ちになるくらい今は昔に比べてポジティブになってる。でもやはりトラウマからは逃げてしまう。トラウマから逃げてばっかりでは行けない気もする。変えられるとこは変えていきたいけど。

 

 とは言っても、急に変えるのは難しいし、何を変えたらいいんだ。ということになる。トラウマとがっぷり四つになれということなのか。トラウマと面と向かって克服することが重要なのか。トラウマなんてないほうがいい。いつのまにか、辛かったトラウマを免罪符のように扱ってる自分が憎い。こういうことに固執してるからいつまでも陰キャと言われるのだ。そうやって、また免罪符を使ってしまう。トラウマは免罪符の安売りのように見えてしまう。ルターが怒るのも間違いない。

 

 でも面と向かって克服するしか解決しないのかね。

変わらない町

 この町も変わんねぇな、と思いながら地元に帰省する。寂れた駅前とか、よく見る人とか。全く変わらない。お前何年その位置にいるんだよみたいな人もいる。

 

 でも僕が知らないところで何かが変わってるのかもしれない。潰れたりしてるところもチラホラみてとれる。以外と僕は何も知らないのかもしれない。

 

 いつもいる人達はだいたい昼間から夕方にかけている。何をしているんだろうか。駅前でたむろする人。宗教勧誘の人。必死に拝む人。世の中の不満を世間に問うために辻説法する人。パチンコ屋の前で酒盛りをする人々。誰かをターゲットにしてる中年ホスト。コンビニのコンセントから電動車椅子を充電する人。いったい何者なのだろうか。これだけはいつまで経っても分からない。というより解決しないほうがいいんだと思う。そっとしてあげよう。そのほうがどちらも幸せで入れると思う。町が変化しても彼らは変わらずそこにい続ける。それがいいのかもしれない。

 

 どの町にもある位置に居座り続ける人は見かける。流動的に変化する都会でもいる。川の流れに逆らうようどっしり構える大岩のように彼らは存在している。道祖神のようにいつもあり続けている。彼らがいてこそ町があるんだなっと最近思うようになった。彼らを排除せず、そっとしてあげたい。いつか僕も彼らのようになった時のために。人には親切にしとくほうがいいはずだから。

 

 

私は機械になりたい

 猛暑で汗だくになってる。吉野家なら丼から汁があふれるくらいだ。夜も熱い。熱帯夜。リップスライムもエアコンをつけたくなるだろう。扇風機すら効かない。でもビールはおいしい。

 

 温度なんて感じなければいいんじゃないか。暑さも寒さも感じない身体。機械になってしまえば。でもパソコンは暑くなると動きが鈍くなる。それなら自分で冷却しないといけなくなる。それで涼しくなるならそれでもいいかも。電力は食うが。

 

 機械になれば死なないんじゃないか。自分で部品を作ることができれば壊れた時に自分で治せる。人間よりは生産性があるにちがいない。みんな機械になろう。

 

 でもデメリットがある。パスワードを入力するときに「あなたはロボットではありませんね?」という質問に嘘をつかなければいけなくなる。

23歳の夏休み

 僕は今年で23歳

 少し顔がやつれてる 

神聖かまってちゃん 23歳の夏休み より

 

 僕は今年の8月1日でとうとう23歳になった。普通に順当な進学チャートを進んでいってれば今年は大学院に進学していたかもしれない。けれども僕は寄り道をしてしまったがために学生のまま23歳となり、夏休みを迎えている。

 

 何も変わらないまま23歳になった。夏休みになったからって特別変わったことをするということはないだろう。何の目的もないまま実家でぐうたらして後期に備えるだけだ。穀潰しの復活である。少し本を読むくらいはすると思うが。

 

 何も変わらないというよりは変えられる気がしないというのが正確かもしれない。同じ年代くらいの人達は何かすげぇ賢そうに見えるし、常に社会に大して批判的だ。とはいえ、狭いインターネットの世界なので当てにはならない。一方の僕は社会に大して文句どころか期待すらしている。多分対岸から見れば馬鹿を見るのは僕なのかもしれない。それは火を見るより明らか。オリンピックは楽しみだし、新元号だって少しワクワクしながら待ってる。サマータイムになったらなんかできそうなことないかなとか、インターネットとは真逆のことを考えてしまう。悪くいえば成熟していない人間なんだろう。

 

 どうしてこんな愚者に見えるような道を歩むようになったんだろう。甘いものの摂り過ぎか?悩むこと自体馬鹿らしくなった、ということにしているけども根本的な原因はよく分からない。もしくは正直批判ばかりの思考に疲れたんだろう。僕には賢く見せる演技は無理だ。

 

 中学生のころ共産党に所属する塾のおばちゃんに政治家に向いてると言われた。この指摘は間違いだと思うけどもし僕が政治家になったらどんな批判がやってくるんだろ。真面目にやれとか言われたり失言でバッシング受けちゃんだろうか。こんなんやってられるか!ってなるのが目に見える。じゃてめぇがやってみやがれ庶民共!文句ばかりで何もしないくせに!と言って辞職してやろうかな。

 

 兎にも角にも、なんだか僕は成長が止まった感じがする。精神的にもまだ高校生くらいだと思うし、大人にはなれてない。というか、大人になりたくない。僕はずっとピーターパンさ。23歳になっても「ハッとして目が覚めた」とか覚醒したとかもなく、新しい思想に入り込む余裕もない。働き方とかLGBTにすら全くついていけない。おいてけぼりさ。何も考えず猛暑のなかポケモンGOしてるよ。ハピナスが強すぎるんだよなぁ。でもこういう賢い人々の言うことについていけないはダメなことなのだろうか。老人とともにフェードアウトするしかないんじゃないか。でも、賢い人達はいつも怒ってるのに疲れないのかね。朝も批判、昼も批判、夜は愛する批判です。レクター博士みたいに頭の中をパカッとひらいて見てみたい。批判するのは気持ちいいから仕方ないのかな。

 

 大きな子供になってだいたい3年。何も変わらないまま、惰性で30に向かってる。彼女もおらず、童貞。日陰で暮らしている。もうこれでいいんじゃないかなって。変革にはエネルギー使うし。めんどくさいし。これもこれで楽だし。でもこれでも焦燥感がやってくる。これで良かったのかなって。宿題をやらず迎えた8月31日の小四の時みたいな気持ちになる。

 

 

 

すべてフィニッシュになる

 やっとテストが終わった。何もかも終わりだ。実家に帰れる。何も再試もなければ良いけど。

 

 文字の羅列をしていると本当に正しい文章を書いているのかどうか不安になる。しかもテスト終わった後とかに。ちゃんと正しい問題を解いているのかどうかとか、もしかして問題ずれてないかとか。すごい不安になる。ちゃんと二乗してたっけなって。ホンマに正しいことを書いてるのだろうか。とか。この先が思いやられる。

 

 心配性なのか。それとも脳みそが疲弊してるのかどちらかなんだろう。もしかして乗っ取られているのか。ますます不安になる。実はもう現世にいなかったりして。 

疲れることに疲れる

 そろそろテスト直前。寝不足。ずっと問題解いてる。ノイローゼになりそう。いやもうなってる。早くテスト終わって楽にしてほしい。もう何も考えたくない。ゆっくりしたい。

 

 社会が巡るめく変わっていく。LGBTとか、オリンピックとか、エアコンとか、熱中症とか。いろんなことがある。みんないろんなこと言うてる。でもなんだか僕はそれらにはついていけないような気がしてる。それらを見るたびに僕は疲弊してるような気がする。感受性が高いっていうことなのか。そうなると時代遅れの老害として扱われるんだろうか。こいつはいらねぇって感じで。

 

 感性をアップデートできない奴は取り残されるらしい。覚悟しとけよという宣言まで聞いた。そもそもアップデートってなんだろう。そういうことを学ぶところがあるんだろうか。あらゆるものに気を遣えってことなのか。だったらもうしゃべらないほうが楽かもしれない。誰もいなくなればいいんじゃないか。

 

 何があってもつぶやかなければいけない。考えて批判して、怒らなきゃいけない。いつも怒ってばかりの人ばかりだ。それって疲れないのかなって思う。いつもいつも途上国だのなんだの言うてるけど、結局元ネタが全く伝わらない。これが脚色ってやつなのか。わざわざそれを見ている僕もどうかしてるのかもしれない。来月は何について社会をバッサリを論じてくれるんだろうか。

 

 アップデートできなかったらどうなるんだろう。社会から取り残されて、ただ孤独死していくだけなのだろうか。アップデートできなければジャンク品としてどこかの国へ捨てられてしまうのだろう。捨てられるなら暖かい島国か、カリブ諸国がいいな。のんびりできるかもしれない。わざわざ疲れるようなことも考えるようなこともしなくて済む。ただ浜辺で夕日が沈むのをネコと一緒に見ていたい。

キーボードファイトクラブ

 最近はあまりいいことがない。実家は大雨でプチ被災。近所の大きい川の堤防が決壊してたら終わりだったらしい。首の皮一枚といったところ。それから連日の猛暑。大学が山の上にあるので通学するだけで滝のような汗が出てくる。登山をするために大学に行っているようなもんだ。あと少ししたら試験もある。これもストレスになっている。様々な課題を回しているせいか頭がおかしくなって来たような気がする。ノイローゼ気味になっている。知らない後輩から話しかけられ支離滅裂なことを叫んでブチギレてしまった。これはよくない。反省してまーす。

 

 嫌なことがあるとインターネットに書きたくなる。事細かに書いて、たくさんのいいねをもらって承認欲求たくさんゲットだぜ!みたいな。でもそういうのに味を占めて気づけばいつも社会の愚痴ばかり。なんかうまいこと言わないといけないような身分になってしまいそうだ。ここ最近のSNSは何かと物騒で、鍛え上げた社会批評を武器に掲げたストリートファイターばかりな気がする。キーボードを叩き、戦うキーボードファイターの地下格闘技場になってしまった。

 

 僕はそんな物騒なことをする気はなくなってしまった。もうほのぼのと優しい世界でのんびり生きていきたい。どんな問題が起ころうとそれは現実で対処すべきだと思う。ネットどんなに「声を上げようよ」とか「目を覚まそうよ」とか言ってもそれは社会のビッグネームには中々伝わらないだろう。こんなことが起きても我々が望んだ世界線なんだと腹をくくるしかない。地下から地上へ出たほうがいいかもしれない。地下には官僚も教育委員会も老人もいない。

 

 こうやって見捨てられた道祖神みたいな僕がこんなこと言ってもやはり意味はないだろうな。早くカタストロフが起きてほしい。すべてを無にしてほしいと願うようになってしまった。すべて無になれば苦もなくなるはずだ。すべてが無になる。これが本当の解決策なんじゃないかな。だって問題の原因が全てなくなるのだもの。救いのないカタストロフが来るまで僕はファイトクラブの前で手を合わせ続けたい。