誰にも言わないどうでもいいメモ

どうでもいいことを書いてます

生物学的に生物なのか

 子孫を残せない生物は劣等なのか?そういう疑問が最近頭の中を駆け巡る。生きてて女性と交際したことないし性行為もしたことない。そういう世界を無縁な道を歩んできた。でもこんな道を歩んでいたら子孫を残せるのだろうか。残せないだろうな。

 

 彼女作って、花火大会行ってラブホ行くというチャートにも載ってるようなことも歩んだことがない。そもそも花火大会すら行ったことない。夜の玉屋は一体どこへあるのだろうか。

 

 夏だから、という文句で誰か女の子吹っ掛けて飲み行くとかしかないんだろうか。でもその相手がいない。先手なのに石を持ってない状態なんだ。まずは石を買わないといけない。あと碁盤も買わないといけない。

 

 僕は異性にも話しかけられない生物。ざんねんな生物に掲載してほしいくらいだ。僕は生物として本当に生物らしく生きていけるのだろうか。

愚かなる指導者の失態

 久しぶりに東京に来た。大体東京に来るのは気になる展示を見に行くか、人に会うかのどちらかだ。今回はどれにも当てはまらない、ただの散策をしていた。国立新美術館のルーヴル展を見るくらいであとは地下鉄に乗ってぐるぐると東京を散策(個人的には街の監視と呼称している)をした。用もないのに井の頭公園や吉祥寺、下北沢などに赴き、渋谷原宿を散策。

 

 前口上はさておいて、今回もご多分に漏れずメイド喫茶に行った。前言撤回しよう、帰宅した。前回帰宅したのが去年の11月らしい。時間とはなんとも残酷無慈悲。半年くらい屋敷を開けていたようだった。これは主人として失格なのではなかろうか。

 

 帰宅すると、メイドが迎えにきてくれた。前回会ったメイドは今回はシフトに入ってなかったらしい。新しいメイドも増え知らない娘ばかり。新しい交流をせねば主人としての務めがなってないことになる。

 

 とここまで、順風満帆でまるでシャボンディ諸島まで負け知らずのルフィのようだった。そしてあいちゅこーひー(アイスコーヒー)を頼み、メイドに給仕してもらっていた。隣のご主人は今日は誕生日だったらしく、全メイドから祝福(チェキと萌え萌えキュン)を受けていた。幸せだろう。ケーキで祝った。そして様々なご主人様が優雅な一時を過ごしていた。しかし僕は違った。なぜならチェキの順番が来ないのだ。後で来た女ご主人もカップルできたご主人もチェキを撮り、誕生日のご主人もチェキを撮り終わっていた。知らぬ間にインドからのご主人もチェキを撮り終わっていた。チェキの順番はと悶々としていた。尿意を我慢し、電車の時間もギリギリ。バス代が無駄になる。早く!

 

 原因究明のために伝票見てみた。なんという事実!どうやら僕はチェキを頼んでなかったらしい。チェキはお家賃(基本料)の中に入っていると錯覚していたのだ!ただあいちゅこーひー(アイスコーヒー)を頼み美味しくなる呪文(萌え萌えキュン)詠唱してメイドを観察している堕落した主人になっていた!俺は弱い!

 

 それから急ぎでお家賃を払い。屋敷を後にした。秋葉原歩行者天国を駆け巡り新宿まで己の不甲斐なさを噛み締めながら東口に出た。そこにはバスタ新宿もなく、また焦りとにかく走った。あと5分というところでバスタ新宿を見つけ一心不乱に、韋駄天が如く冷凍都市を駆け抜けた。またもや新宿駅の術中にハマってしまったのだ。得たものは何一つなく、我慢していた尿意を解放するようなニヒリズムさしかなかった。

 

 今度帰宅する際はこんなことがないようにに気をつけたい。きちんとドリンクセットを頼むことにする。贔屓にしてるメイドがいる日を確認し行く。それまで修行だ。

ナイトメアテラー

 久しぶりに悪夢を見た。自分の祖母が認知症の患者が集められる病棟で急に昔の歌を歌いだすという、言葉は悪いかもしれないが、気味の悪いものだった。それで二時半に目が覚めた。その日は小テストがあったから夜中に目が覚めるなんて最悪だった。寝ぼけ眼で受けてきた。しかし、見た夢があまりにも恐怖そのもので集中できず、眠さでよだれが止まらないまま一コマのテストを終えた。

 

 実は祖母は4年前に亡くなっている。何年も前から寝たきりだった。パーキンソン病という病気にかかり歩けなくなってみるみるうちに体は弱り寝たきりに。そしてある日高熱をだし病院に運ばれそのまま旅だった。最後まで臨終の際にいたが、なんというかあっけないものだった。医師の説明を聞いている間にドラマでいくあるような心電図が「ピー」と鳴り波形が平但になり亡くなりました、というやつだ。それがそのまま心電図はフラットになり祖母は死んだことになった。最初はあっけにとられて、嫌な予感がしていたが、やはり亡くなっていたらしい。人の死とは突然で、最後の力を振り絞ってなんてありはしないんだなと。しかしあっけなさすぎる。

 

 葬式を終えて何日かすると祖父が夜中にうなり始めるようになった。理由を聞くと悪夢を見たらしい。なんとも時期を読まない悪夢である。やはり祖母が亡くなったのが堪えたのだろう。かかりっきりで介護していたのだもの。それ以来うなることもなくいつもと同じように眠るようになった。

 

 夢をみるならいい夢がいい。好きな人と一緒にいる夢。幸せな夢。エッチな夢。夢はいいほどいい。それが現実になればなおいい。しかし悪夢となればそれは現実に起きては欲しくないが悪夢ほど現実離れしたものはない。悪夢を見ないためにはどうすればいいのか。寝る前に刺激の強いものに触れないようにすればいいのだろう。例えばアンメルツヨコヨコとか。

ゲシュタルト崩壊

 最近同じことの繰り返しで何もかも訳が分からなくなった。今日が何曜日で何日でともうわからない。あれ僕は何してたっけ?問題文の意図が読み取れなかったり読み間違えたり。引き算を足し算のように思えてしまうようになり、字が読めなくなったり。これは何事なのか。

 

 知り合い曰くこれはゲシュタルト崩壊というらしい。なんとも胡散臭い現象名である。何が崩壊しているんだ。こんな中二病くさい崩壊に巻き込まれてたまるか。俺は崩壊なんかしてねぇぞ。この知人も実は実在してないんじゃないか?と思う。あれ僕はこの世界にいるの??

 

 とまぁ嘘みたいな生活をここ最近してる。むしろ嘘のほうが幸せである。嘘は人を幸せにする。メンタリストも驚きのメソッドなんだ。

 

 僕は嘘の中で生きてるんだ。真実の世界ではイケメンでセレブなんだ。そうであってくれ。そっちのほうが嘘なのか?

結晶

 三か月前くらいに田中康夫の「なんとなく、クリスタル」を読んだ。舞台はバブル直前の東京。主人公は女、女子大学生。青学なのかどうかわからないがモデル。と設定をごたごたと述べる必要はない。適宜気になる人は検索されたし。この本の特徴は注釈の多さ。右ページに本文。左ページに注釈というなんとも変わった文体のスタイルである。

 

 この本を読むときにはとりあえずパソコンと東京の地図を片手に持ち読まないといけないような気がした。どこそこへ移動した、ここからここまで移動したと書かれてもそれがどこなのかわからないし、地理的なものがイメージできない。つくづく小説というものは田舎者に厳しい。

 

 僕は文化はすべて東京の話と決めつけている。時代錯誤かもしれないけど。でも結局情報番組なんて都内の話ばかりじゃないか。表参道の何かが今話題!と言われても、はて?となるだけだ。文句を言うならローカル番組を見るべきと言われたら何も言えないが。

 

 この小説を読んでもバブルのことはこれぽっちも感じることはできなかった。つくづく貧しい感性を持ち生まれたんだと後悔している。バブルが弾けた数年後に生まれた僕は好景気を知らない。別に何も恨んじゃいない。恨む仕事は他人に譲っているものだから。僕の体はバブルの残滓でできていることは分かった。

 

 それでもバブルの面白おかしい話は僕は結構好きだ。こんなに馬鹿げた金と情熱を注いだんだというおもしろさ。明後日の方向の考えのおもしろさ。やはりヒトは愛すべき動物なんだと再確認。 

 

 

解析とペナルティ

 僕はシティボーイに憧れる田舎のシティボーイの友人にpopeyeを「全部東京の話でしょ」と釘を刺すようなことを言ったことがある。しかし当の本人である僕はpopeyeを読んだことがない。これはエビデンスなんてねーよの二番煎じである。理系の人間がこれでいいのか、と思い、ペナルティ?のために毎月popeyeを買うことにした。

 

 シティボーイを目指してない僕が買うのはいかがなものかと思うだろう。だが、これも社会勉強として読んでみようと思う。他人がどんなことをしているのか。何が流行っているのか。それを知るのに十分な手段だと推測される。そしてシティボーイとはいったいなんなのか。これを読めばシティボーイになれるのか。解析をしていこうと思う。

疾風怒濤の時代

 ゲーテは青年期のことを疾風怒濤の時代と呼んだ。たしかに青年期は荒波に揉まれ揉まれ、いい味がするぐらい揉みこまれる。伯方の塩のCMにでも出すべきだ。トラウマもあの時の淡い恋も性病も依存症も、青年期にイベントとして現れると思う。先の見えない不安も。

 

 川端康成よろしく、先の見えないトンネルを抜けるとそこには何があるのだろうか。町なのか、それともさびれた枯野か、夢の中か。

 

 僕はどうなるのだろうと不安で枕を濡らす夜がある。どうしようもない。季節外れの寒さに身をやつすばかりだ。

 

 なにができるんやろうか。