誰にも言わないどうでもいいメモ

どうでもいいことを書いてます

疾風怒濤の時代

 ゲーテは青年期のことを疾風怒濤の時代と呼んだ。たしかに青年期は荒波に揉まれ揉まれ、いい味がするぐらい揉みこまれる。伯方の塩のCMにでも出すべきだ。トラウマもあの時の淡い恋も性病も依存症も、青年期にイベントとして現れると思う。先の見えない不安も。

 

 川端康成よろしく、先の見えないトンネルを抜けるとそこには何があるのだろうか。町なのか、それともさびれた枯野か、夢の中か。

 

 僕はどうなるのだろうと不安で枕を濡らす夜がある。どうしようもない。季節外れの寒さに身をやつすばかりだ。

 

 なにができるんやろうか。

暇が人を狂わせる

 GWは皆さんは暇でしたでしょうか。僕はとても暇でした。と言いたいところだけど、そこまで暇じゃないけど暇だった。やらねばいけないことから逃げていただけである。とは言っても暇なものは暇。誰からも飲みの誘いもなければ遊びの誘いもない。バスで町へ出かけるくらい。町中にのGWの熱狂をもろとも感じない鈍感な感性をむき出しにして散策をした。ただそれだけでGWが終わった。

 

 なんやかんで遠出をして、清水の三保の松原まで行った。世界遺産になったらしくどんなものか見に行ったががっかりだった。そこまですごいというわけでもなく、ただ海岸から富士山が見える程度の砂浜。ただGWなのか黒山の人だかり。これがGWか。1000円の交通費を払って見た景色は心に残ることもなく忘却の彼方へいくだろう。僕の感性が鈍いのか、期待するほどのものではないということなのか。

 

 最近の趣味は架空の家族を作り、空き缶や飲みかけのドリンクの写真を撮っている。これが無性に楽しい。暇だからなせる妙技である。と自負をしている。でも他人からみたらこんなの狂っているとしか言えない。それでも暇を埋め合わせればそれでいい。

 

 狂人というのはそもそも暇なのだ。みんな狂気を帯びている。それは暇だからだ。それで満足ならそれでいいとおもう。みんな満足な豚になったほうが良いと思う。

 

 暇というのはどんなドラッグ、セックス、アルコールよりも中毒性があると思う。我々は暇なしでは生きていけれない。摂取量が多ければ多いほど、狂人になれる。あの街中の狂ったおじさんがああなったのは暇がそうさせたのかもしれない。人生は死ぬまでの暇つぶし。狂っているのは俺かお前か。

結婚

 今年の八月に僕は23歳になる。大学で複素関数論のテストの最中に23歳を迎えることになってる。ここまでくると年齢はどうでもよくなってくる。ただの記号だ。同じ年の中学時代の友人はもう職に就き、はじめてボーナスをもらうだろう。

 

 23歳に近づくと、そろそろ結婚が頭をよぎるようになる。しかし肝心の相手がいない。バスに乗ると親子連れが仲睦まじく乗車する。ショッピングモールに行けばガラの悪い夫妻が歩いてる。その足元で子供たちは大暴れ。なぜガラの悪い夫婦の子供は三人もいるのだろうか。少子化なんて嘘のようだ。

 

 こんな夫婦を見ると、もし結婚したならば、子供を作るようになるのだろうか。子供を育てるってどういうことをするんだろう。僕は何も知らなさすぎる。無知はあっけなくカタストロフを呼び込む。

 

 根本的な問題として僕には結婚する「資格」があるのだろうか。稼ぐ能力もないし、おまけに奨学金もついてくる。こんな事故物件のような人間は誰が相手をしようか。物好きな世間知らずか、ファンキーな外国人か。それかガチで好きになってくれる人か。まずは相手を探さないといけない。ガチで。

 

 やっぱり一人が一番なのか。独り身となり世俗を離れ隠遁生活。それはそれでいいかもしれない。孤独死を迎えてもハッピーエンドだろう。畳のシミが俺の生きた証だ。

グレートマン

 毎日毎日なにか張り合いがない。久しぶりに大学に「通学」してる。実験はぐだぐだでなかなか終わらず帰れない。理系の運命なのなら仕方ないが。

 

 大学の教員が毎日のようにネットで社会の批判をしている。暇なのか、正義の使者になったのか。彼、彼女の姿は見たことないけど、せっせと批判をし、社会の変革を求めてる。暇なのか。

 

 あるFBIの話をどこかで聞いたことある。日本にはグレートマンが多いのだと。グレートマンというのはいわゆる批評家みたいなものであるらしい。社会に出ず、ひたすらに斜に構え批判をする。そして何も行動をしない。あなたの隣にもグレートマンがいるかもしれない。

 

 社会批判をしても幸せなのか?僕は少なくともそうは思わない。なにかを変えたいなら行動するほうがましだと思う。そういう僕は何もできないけど。弱いやつは死に方も選べない、ワンピースのトラファルガー・ローが言った言葉だ。弱いやつは行動も何もしない者と解釈してもいいかもしれない。社会を変えたいなら優しいテロリストか過激な政治家になったほうがいいだろう。

 

世間には社会批評を素材としたエンタティナ―が跋扈している。グレイテストショーマンだ。いつも僕たちに疲弊とやるせなさを見せてくれる。バリケードを壊すほどの熱狂を生む......

神々の啓示

 大学が始まった。新学期である。桜も散って葉桜に。桜の残骸が溝にたまってる。大学の入り口近くには宗教の勧誘が待ってる。

 

 春先なので新社会人への啓示がネット上にあふれ出してる。「あれしろ!」「これしないさい!」「これをしないから日本は.....」と神々たちが下界の民衆に啓示をしている。~すべきことばかりである。うんざりだ。

 

 じゃ、てめえ社会変えてみやがれとしか言えない。外に出てみませんか。日向に出ると燃えちゃうのか。やはり人間は無力!存在は無だ。

 

 夜、エホバの証人が来た。まさか戸別訪問してくると思わなかった。ここに神あり。神はまだ死んでなかった。iPadを聖書にしてやってきた。相手は女性、シスター二人できた。iPadを開き、聖書のある章を読み始めた。でも、心にはしみこんでこない。すぐさま「ごめんなさい、モンハンしてるんで」と言い、帰ってもらった。

 

 本当の神は、歩いて迷える僕たちの前に現れる。外に出てる。もう少しに日向にでよう。

 

 

君たちはどうイキるか

 君たちはどう生きるか?そういう本が最近ベストセラーらしい。僕のような斜に構えすぎて水平に近い人間はタイトルから説教臭く買う気にならないが。

 

 そろそろ大学が始まる。鬱屈とした大学生活。色気のない大学生活である。地方の大学はなんと寂しいことか。寺山修司ならもう書を捨てに捨てまくり、町へダッシュで駆け出すだろう。それほど何もないのだ。

 

 理系の人間だけど、たいして勉強ができない。このさきどうなるんだろう。モラトリアムを伸ばすために大学院に行こうと思うけど、たいして勉強ができないためまともな論文もかけず、食えない博士号を手に入れてしまうのだろう。そういうところで何か学歴が役にたてばいいなと思い、旧帝大に院進できればなんとかなると、安易な考えを持っている。でもそれを達成する能力もないのだ。

 

 この先どうなるのか。冬からの鬱な気分を引きずったまま専門の勉強をせず、ただただ小説を読み、美術館へ足しげく通う。それもいいけど僕はどうなるんだろう。奨学金の返済額680万というのを知り段々と恐怖を感じる。いいねえ勉強もせず親の金で都内のFラン大学に通う人は。贅沢な遊びだとおもう。

 

 でも僻んじゃだめだ。これはすべて僕の実力不足。都内の国立大学に行けなかった僕が悪い。巨額の金を稼ぐ能力がないからだ。すべての不都合はすべて自分の能力不足。東京喰種のセリフが僕を納得させ、奈落へ落とす。

 

 もう少しポジティブに生きようと思う。筋肉でも鍛えるか。

葬式にかける音楽

 死ぬときってどこからか音楽が流れてくると持ってる。僕の場合はか笑点のテーマだと。心肺停止しても一応は意識はあるらしい。それなら楽しい音楽がいい。葬式中にはBohemian rhapsodyを流すして、荼毘に付されるときは、Deep purple のBurnが盛り上がるだろう。

 

 実家の祖母が病院に運ばれ入院し、危篤になった時、臨終の際に立ち会ったことがある。医師の病状説明の時、心電図が「ピー」と音を鳴らし心拍数の数値が0になった。それでも、医師は説明を続けていたか混乱したけど祖母はその時点で亡くなっていたらしい。あっけない。受け入れる時間もくれず亡くなった。どういうわけか悲しむ余地を与えず、むしろ清々しい気持ちだった。こんなにもあっけないものなのかと。

 

 葬式はものすごく荘厳である。坊さんのお経をいい声で唱える。お経はよく分からない。何を言ってるのか。でもものすごく心地が良い。

 

 葬式くらいもっと盛り上がってほしいというのが個人的な思い。葬式中にEDMかけてみんなで焼香投げて酒飲んで盛り上がるのも良し。みんなで集まってワイワイしてくれたほうが三途の川も気兼ねなく渡れる。

 

 あまりにも楽しそうなら地獄から戻ってくるかも。