誰にも言わないどうでもいいメモ

どうでもいいことを書いてます

グレートマン

 毎日毎日なにか張り合いがない。久しぶりに大学に「通学」してる。実験はぐだぐだでなかなか終わらず帰れない。理系の運命なのなら仕方ないが。

 

 大学の教員が毎日のようにネットで社会の批判をしている。暇なのか、正義の使者になったのか。彼、彼女の姿は見たことないけど、せっせと批判をし、社会の変革を求めてる。暇なのか。

 

 あるFBIの話をどこかで聞いたことある。日本にはグレートマンが多いのだと。グレートマンというのはいわゆる批評家みたいなものであるらしい。社会に出ず、ひたすらに斜に構え批判をする。そして何も行動をしない。あなたの隣にもグレートマンがいるかもしれない。

 

 社会批判をしても幸せなのか?僕は少なくともそうは思わない。なにかを変えたいなら行動するほうがましだと思う。そういう僕は何もできないけど。弱いやつは死に方も選べない、ワンピースのトラファルガー・ローが言った言葉だ。弱いやつは行動も何もしない者と解釈してもいいかもしれない。社会を変えたいなら優しいテロリストか過激な政治家になったほうがいいだろう。

 

世間には社会批評を素材としたエンタティナ―が跋扈している。グレイテストショーマンだ。いつも僕たちに疲弊とやるせなさを見せてくれる。バリケードを壊すほどの熱狂を生む......

神々の啓示

 大学が始まった。新学期である。桜も散って葉桜に。桜の残骸が溝にたまってる。大学の入り口近くには宗教の勧誘が待ってる。

 

 春先なので新社会人への啓示がネット上にあふれ出してる。「あれしろ!」「これしないさい!」「これをしないから日本は.....」と神々たちが下界の民衆に啓示をしている。~すべきことばかりである。うんざりだ。

 

 じゃ、てめえ社会変えてみやがれとしか言えない。外に出てみませんか。日向に出ると燃えちゃうのか。やはり人間は無力!存在は無だ。

 

 夜、エホバの証人が来た。まさか戸別訪問してくると思わなかった。ここに神あり。神はまだ死んでなかった。iPadを聖書にしてやってきた。相手は女性、シスター二人できた。iPadを開き、聖書のある章を読み始めた。でも、心にはしみこんでこない。すぐさま「ごめんなさい、モンハンしてるんで」と言い、帰ってもらった。

 

 本当の神は、歩いて迷える僕たちの前に現れる。外に出てる。もう少しに日向にでよう。

 

 

君たちはどうイキるか

 君たちはどう生きるか?そういう本が最近ベストセラーらしい。僕のような斜に構えすぎて水平に近い人間はタイトルから説教臭く買う気にならないが。

 

 そろそろ大学が始まる。鬱屈とした大学生活。色気のない大学生活である。地方の大学はなんと寂しいことか。寺山修司ならもう書を捨てに捨てまくり、町へダッシュで駆け出すだろう。それほど何もないのだ。

 

 理系の人間だけど、たいして勉強ができない。このさきどうなるんだろう。モラトリアムを伸ばすために大学院に行こうと思うけど、たいして勉強ができないためまともな論文もかけず、食えない博士号を手に入れてしまうのだろう。そういうところで何か学歴が役にたてばいいなと思い、旧帝大に院進できればなんとかなると、安易な考えを持っている。でもそれを達成する能力もないのだ。

 

 この先どうなるのか。冬からの鬱な気分を引きずったまま専門の勉強をせず、ただただ小説を読み、美術館へ足しげく通う。それもいいけど僕はどうなるんだろう。奨学金の返済額680万というのを知り段々と恐怖を感じる。いいねえ勉強もせず親の金で都内のFラン大学に通う人は。贅沢な遊びだとおもう。

 

 でも僻んじゃだめだ。これはすべて僕の実力不足。都内の国立大学に行けなかった僕が悪い。巨額の金を稼ぐ能力がないからだ。すべての不都合はすべて自分の能力不足。東京喰種のセリフが僕を納得させ、奈落へ落とす。

 

 もう少しポジティブに生きようと思う。筋肉でも鍛えるか。

葬式にかける音楽

 死ぬときってどこからか音楽が流れてくると持ってる。僕の場合はか笑点のテーマだと。心肺停止しても一応は意識はあるらしい。それなら楽しい音楽がいい。葬式中にはBohemian rhapsodyを流すして、荼毘に付されるときは、Deep purple のBurnが盛り上がるだろう。

 

 実家の祖母が病院に運ばれ入院し、危篤になった時、臨終の際に立ち会ったことがある。医師の病状説明の時、心電図が「ピー」と音を鳴らし心拍数の数値が0になった。それでも、医師は説明を続けていたか混乱したけど祖母はその時点で亡くなっていたらしい。あっけない。受け入れる時間もくれず亡くなった。どういうわけか悲しむ余地を与えず、むしろ清々しい気持ちだった。こんなにもあっけないものなのかと。

 

 葬式はものすごく荘厳である。坊さんのお経をいい声で唱える。お経はよく分からない。何を言ってるのか。でもものすごく心地が良い。

 

 葬式くらいもっと盛り上がってほしいというのが個人的な思い。葬式中にEDMかけてみんなで焼香投げて酒飲んで盛り上がるのも良し。みんなで集まってワイワイしてくれたほうが三途の川も気兼ねなく渡れる。

 

 あまりにも楽しそうなら地獄から戻ってくるかも。

数字と昔話をすること

 数字とは不思議なもので我々に過去のことを思い出さしてくれる。例えば9.11と言えばアメリカの同時多発テロのことを思い起こすし、3.11と言えば東日本大震災のことを思い出させる。僕は普段、理系学部の人間なのでいろんな数字と出会うのでいろんな過去のことを思い起こさせられる。

 

 例えば、「2008」という数字は僕が中学に入学した年で中学時代のことを思い出させる。中学時代はいろんなことがあったな、あんときもうちょい勉強すればよかったなーって。「1月31日」はとある高校を中退を決意した日。たしか東京事変が解散したってニュースのほうがショックが大きかった。

 

 こういう話を折に触れて友人とかに話す。過去の話をするのはすごく簡単で脳内の棚から文章を引き出し、口から提示する。しかし僕は、毎度同じ話をするらしく友人から「その話何度目?」と定型文を返される。僕はもうボケてんのか。

 

 昔苦労したことは大抵何年かするとなぜか面白おかしく話すことができる。だから昔の話を何度もしてしまうのだろうか。だからか、おじさんが若い人に苦労しろよと喧伝するのは。これがもしかして老害と言われてしまう行動なのだろうか。僕もとうとう老害呼ばわりになってしまうのか。

 

 自分の話なので作り話と受け取られてしまいそうだけど、実際に起きた話だ。もしかして今の苦労もこの先笑い話としてネタになるのかと思えば何とか乗り切れそうな気がする。そう思いながら苦難上等の選択をしているけどいらない苦労のほうが多い。

 

 

 

流行、アイコン

 今、ポプテピピックが「流行ってる」みたいですね。と言ってもネットの境界を離れるとポプテピピックのポの字も聞かない。結局ネット上だけでもてはやされているのか。これほど、ポプテピの画像を使い消費されているのに外では見かけない。住む世界が違うからなのかもしれないが。

 

 流行とは恐ろしいもので、流布されると周りのみんなはそれをウイルスにやられたかのようにマネしだす。それをマネしなければ「遅れている」と烙印を押される。流行にのることはコミュニティに属しているものに疎外感を感じさせることもできる恐ろしい儀式なのだ。

 

 日本には「○○顔」という顔面分類法が確立されている。塩顔、しょうゆ顔、ソース顔。なぜか調味料の名前で区別し、グループ化する。何年かおきに顔の好みの波みたいなのが来て、そのアイコンが特集され流行りだす。同じ平たい顔族なのに分類されない僕のような添加物顔のヒトはどうすればいいのだろうか。

 

 ひと昔の番組なのか今でもやっているのかもしれないが、スタイリストの人が街角の人のファッションチェックするというコーナーがあった。某人曰く素人に向かって「全然ダメ、流行りのこれを着ければ」と他人の着ているもの全否定するのだ。スタイリストなのに流行りにのっかるなんてと母親が買ってきたものしか着ない人間ながらに疑問を抱いていた。服装なんて流行追いかけてたらつまらないと思う。そういう本流への反動から、原宿系やゆめかわいい系が生まれてきたなのかもしれない。これも結局体系づけられているので流行してしまっただろうか。

 

 流行っていったい何だろうか。地方に住んでる人間は東京のような原宿があるわけでもないし、流行という船に乗るための切符を持てない。結局、音楽や生活必需品と違ってみんなが手に入れられない。流行と決めつけるには遠く北海道の漁師がニューエラとエアーマックスを履いて漁に出てることが必要十分条件ではなく、東京などの大都市で十分なのだ。

 

 服と違って顔はランダムに発生するイベントなので全国的に流行すると言える。もし友人が「今、塩顔系のイケメンと付き合っている」と言えばそれは彼女は流行にのっかているのだなと解釈できなくもない。ブームが過ぎ去れば彼は「時代遅れ」の顔になってしまうとも解釈できる。

 

 流行は恐ろしいものとつくづく思う。流行の顔でなくてよかったのかどうかわからないが、モテないという事実は確か。

 

今夜はブギーバック

去年、小沢健二を聴いて衝撃を受けた。彼が日本に帰ってきてMステに出たときのことだった。そのころ、僕は大学の講義も終わり実家へ帰省するために大阪から帰省した。その日は大渋滞が起き、夕方に帰れるはずだったのについたのは夜。ちょうど実家に帰って晩御飯食べているときに曲を聴いた。

 

「僕らが旅に出る理由」と「流動体について」を歌ってた。

 

小沢健二なんて知らなかった僕はこの衝撃を受けてほかの曲を聴いた。だからと言ってものすごいファンになったとは言えないけど、体内のどこかにその存在があるような気がする。

 

自分が生まれる前にヒットした歌は、今の歌の様式と違っていてとても面白い。むしろ今の歌よりも、自分が生まれる前の歌が心地よい。なんでだろう。

 

ゆっくり歌っているからだろうか。最近のようなスピード感あってドゥインドゥインEDMみたいな踊るための音楽でないからむしろ新鮮。歌詞もしっかり頭に入ってくる。恋とか西野カナみたいに揺れてるわけではなく、ある風景や体で感じた風の心地について語りかけているような気がする。(流動体については)

 

僕は今夜はブギーバックできないのだろうか