誰にも言わないどうでもいいメモ

どうでもいいことを書いてます

Battle of SNS

SNSとはつらい世界だ、と最近感じ始めた。遅すぎるが。ツイッター、ライン、フェイスブック、インスタグラムなど、多くのSNSがあって世界を形成している。世のなかにはごまんと多くの人類がいてその中に数え切れないほどSNSをやってる人がいる。

 

僕がツイッターを始めたころは、「いいね」ではなく「ファボ」だった。ハートではなく星だった。そのころはどんなツイートしてもいいねがファボが着くこともなかったし、なんかフォロワーとのつながりも薄かった気がする。なんだかよくわからないけどいろんな人がつぶやいてそれがだらだらと流れる様式だった。そしてある大きな出来事が起きて、日本でもツイッターが流行ってきたというのが自分の感覚である。

 

ツイッター歴は長いほうだと思うけど、昔と今のツイッターは結構大きいな違いが自分としては感じ取れる。

 

今はもう、ツイッターは魑魅魍魎としておぞましく、パンデモニウムに迷い込んだように錯覚する。精神的な苦痛から来るツイート、自分の好意対象を賛辞するツイート、根拠があるのかないのか分からないライフハックツイート、政治批判ツイート、他人の揚げ足をとり市中引き回しツイート。これらの弾丸が私たちユーザーの頭上を飛び交っている。リムったりリムられたり、凍結させられたり。SNSは戦場となってしまった。

 

別にそういうツイートするのは構わないと思う。でもそれは幸せにつながるのかと思ってしまう。ちょうどいいガス抜きぐらいならいいのかもしれない。毎日政治批判をしているアカウントを見ると「生きてて幸せなのか?」と思ってしまう。海がきれいだから見に行きなよと言いたくなる。

 

じゃツイッターなんてやめてしまえばいい。そう思われる。そう思うでしょう。確かにそうだ、やめちまえばいいんだよ。やめられない理由がなくやめられないでいるからやめられない。なにかもう少しまっとうな理由を探さなければいけない気がする。その方針のほうが攻撃的な人も納得するんじゃないか。

 

ここは戦場。だれも見向きもしない閉じた世界の戦争。何を叫んでも現実に届くことはほぼなく、四角い画面とにらみ合い、日々を消耗していく。やめられないとまらないスナック菓子のように。

 

不安の冬

 将来への不安が寝る前にやって来る。この先僕はどうなるんだろうかとか、僕本当に働けるのかなとか。当方、大学院進学志望なので就職活動をするつもりはないんだけど、万が一試験に失敗したらどうしようと考えると不安になる。それより僕は社会に出て働けるのだろうか。バイトもあまりしたことない。両親も還暦近いので親にすがるわけにはいかない。免許も持ってない。

 

 将来何になりたいか?そんなことを小さいころに聞かれた。僕は「プーさん」と答えたらしい。その数十年後、僕は浪人し、ついにプーさんになる夢をかなえた。そして、大学院試験に失敗すればまたプーさんになるわけだ。人生で二度も夢を叶えたことになる。僕は夢追い人、ドリカムなんだと思えば詭弁だが。

 

 Popeyeの「20歳の時何してた?」タイトルを見たとき僕はすかさず「浪人してたよ」と即答した。高校を中退して違う高校に移ったので通算四年間高校に通った。それで浪人までしてしまったので20の頃に一浪をすることになった。野球選手のFAみたいに。だから「浪人してたよ」と叫べるわけだ。予備校の生活は最初はついていけなかった。辞めたかった。予備校すら辞めようとする人間なんてこの世にいるのだろうか。なんやかんやで友人ができたからか、予備校に行き続けたけど結局志望校に受からなかった。それで今の大学にいる。

 

 あの時もう少し勉強していればなんて、誰もが後悔をする。僕もそうだったし今も後悔している。別段、容姿がいいわけでもない。俳優になれそうな素質もない。テレビという狂った世界ならお金なんてがっぽりなんだろうとお思うけどそれは甘い考えなんだろう。そう思えば、あの時きちんと勉強し社会経験をして「人間らしさ」を身に着けていたほうがよかったのかもしれない。嫉妬、憎悪を燃料にして後悔につぐ後悔。今はまさに大後悔時代なのだ。

 

 オナニーして、酒飲んで風呂はいって寝る。夜は将来への不安が押し寄せるむなしい生活。この不安をどうにかして軽くできないか。

 

POPEYE(ポパイ) 2018年 3月号 [二十歳のとき、何をしていたか?]

POPEYE(ポパイ) 2018年 3月号 [二十歳のとき、何をしていたか?]

 

 

劣等一億分の一

最近、劣等感をものすごく感じる。生まれや容姿、両親とか、学力とか。テレビを見ることすら嫌になる。こんなのじゃ酒の量が進むばかりだ。肝臓がイカレちまう。

 

他人と比べるな、と多くの引く手数多の偉人たちを仮託して言われ続けたこの呪詛。他人と比べないなんてほとんど無理じゃないですか。他人と比べないとそもそも自分の位置すらわからないでしょ。人間みんな結局比べちゃうわけなんだよな、本能として。太古の恐竜の時代から受け継いできたものなんだなって思う。

 

ミスコンとかそういう容姿で競う大会ってなんだか劣等感をめちゃくちゃ煽る。青学とかそういう本流のミスコンはやっぱり何か格が違うと思う。さすが渋谷にキャンパス構えているだけある。でもやっぱりそこには骨肉のどろどろのせめぎあいがあって、そこを勝ち抜いてこそ、真のミスコン。そこから芸能界入りという何ともレールどころかリニアモーターカーが敷設された人生だよな。相撲でいう学生横綱からの幕下付出。畜生、なんで俺はこんな苦労を!とミスコンにすら参加してない僕を含める紳士淑女は彼女たちが整形しているというエビデンスのない風説を信じ気持ちを落ち着かせるのだ。東大王とか「かしこい」人たちの祭典もこいつらは社会に役に立たんな、テレビのおもちゃじゃないか、と自らを棚に上げて蔑む。

 

「神は美を平等に与えなかった」という何気ないフレーズが僕を傷つけた。これはうちの大学のミスコン&ミスターコンのキャッチフレーズだ。神は常に平等であるべきなのに、美については平等に与えなかったということなんだろうか。出場者は美を与えられて出てないものは美を与えられなかったということであろう。こんなクソみたいなキャッチフレーズこのご時世によく通ったなと。差別じゃん。なんて負け犬根性で叫んでも誰も聞いてくれないのである。負け犬の声は小さいから。

 

それから何もかも見るものすべて世間で美男美女と評価された人が憎悪の対象になってしまった。コンビニ行くたびに表紙の雑誌のグラビアアイドルを殴りたくなる衝動に駆られている。ぐっと拳を引っ下げ我慢する姿は外国から出稼ぎに来た労働者にも滑稽な姿として映っているだろう。まるで性の喜びおじさんじゃないか.....

 

神は僕に劣等感というダーツを当てた。僕は、日本劣等一億分の一、劣等村の劣等村人なのさ。

 

 

漂流インターネット

ツイッターを初めて約8年くらいが経つ。インターネット歴はそれ以上だと思う。まさにデジタルネイティブなのかなと。ツイッターとかネットコンテンツに触れている時間は一日の大部分を占めるかもしれない。というかインターネットは生活必需品、もはや主食にまで地位を上り詰めてる。

 

インターネット老人の部類に含まれるのかもしれない。2chはやったことないけど。ネット上には様々な情報が氾濫していて好奇心を満たすにはもってこいだ。小学生ながらポケモンの攻略法や裏技、youtubeを散々漁った。中高生になれば親がいない間にXvideoを鑑賞。大学生になれば明日への不安を消すために、大学院や就職の情報を探して自分を慰めたり奮い立たせたり。ネットは薬にもなるし毒にもなる。

 

SNSが流行りだしてネットってみんなのものになった気がする。女子高生から電波にあてられて進化した人、政府広報や政治家なの、根暗な洞窟に住む住人から万人のものになった気がする。電車男を知ってる人はもしかしたら卒倒するかもしれない。まさか、女子高生が「草不可避」とか言ってるなんて。

 

そうやっていろんな人種がSNSを始めだして、いろんな画像が漂流し始めた。自撮り、おいしそうな料理の画像、情欲をそそる裸体、死体、美男美女、絶景。もうなんでも目にすることができる。もうルーブルまで行く必要はないだろう。

 

ネットに漂流して座礁した画像はほとんど消えることはない。0と1の世界で生き続ける。例えば、誰かが問題起こした場面に遭遇してスマホでかしゃりと写真なり動画なり撮る。そしてSNSへ放流する。そしてトラブルを起こした本人はネットの世界で死刑を執行される。現代はみんなスマホという死刑執行装置を持ち歩き、皆が執行人の資格を持っている。誰かがスイッチを押せば刑が執行される。そしてつられるようにみんながボタンを押すシステム。

 

こう考えてみると、自撮りとか隆盛を極めたネットコンテンツは現実世界で実体として死んでもネットの世界で半永久的に生き続ける不死を強いられるのだ。例えば、野獣先輩は死亡説がでいるのにいまだにネット上で生き続け、私たちに娯楽を与え続ける。そこに彼の意志は存在しない。どんなに美しいモデルも死んでしまえばそこからアップデートされないわけで、ずっときれいだった姿でネット住民に周知されるだけになる。あの好きな子の写真を保存してしまえば永遠に彼、彼女を永遠に愛でることができる。永遠の17歳を作り上げられる、この手で。

 

白熱してストーカーなどはしちゃだめだぜ

受験

もうセンター試験の季節ですね。前期後期試験も始まりますね。試験勉強お疲れ様です。僕も試験勉強は相当したような気がする。もしかしてしてないのかもしれない。

 

受験は相当やった。高校中退して再受験したり、そして浪人もしてしまったし、両親には頭が上がらず、いまだに地面に突き刺さったまんま。

 

受験は人の頭をおかしくする作用もある。予備校時代も病んで消え去った人もいる。やっぱり受験は頭をおかしくする。僕も今なら笑えるけど、異常なことしてたような気がする。

 

ツイキャスでギャルかよくわからないデリヘル嬢のツイキャスを夜な夜な聞いて興奮していた。ガサガサとビニール袋の擦れる音、お酒を飲む音がものすごく興奮してしまう。時たま「誰~あと一人~」っていう声を聴くと寝ながら「俺なんだよな~」とそのまま寝てしまう。こういう異常なことをしてしまうのが受験期だと思う。

 

他にも頭がよくなるというカレーを、頭がよくなるという紅茶で煮込み、頭がよくなるという納豆を混ぜて食べていた。これだけ見るともう食べただけで天才になれると思ってた。味は想像に任せるが。そして定刻になったら近所の墓苑に歩いていき夕日を眺める。近くの池に映るオレンジ的赤橙色は格別だったのを覚えている。

 

こんなことせずに実直に勉強していれば恥ずかしながら目指していた東大に受かってたかもしれない。どの口が言ってるんだというかもしれないが結構いい判定もらえてたんだけどいかんせんセンターが苦手だった。こんな言い訳はいくらでも言えるのだけど。

 

こういう経験はウケを狙うときにしか喋れないけれども、自分自身で振り返るとほんとにおかしいことしてたんだなって自戒にもなる。

 

 

 

 

 

歌詞と共感

歌詞に共感する人っているんだろうか。僕だけができないのか。ラブソングを聞いて共感できるっていう人をテレビとかで見る。共感を呼ぶ歌詞が話題にという煽り文句で。

 

ラブソングに共感できないのはまともな恋愛をしたことがないからかもしれない。ログインボーナスのように記念日を祝わなければいけないし、計画立てて旅行するの無理だし。相手に合わせて笑うことも苦手だし。西野カナを聞こうとしないのもこれが原因なのかもしれない。

 

歌詞に共感っていったい何だろうか。「そのきもちわかる~」とか「あったあったそんなこと~」とかそういう経験に基づくことなのか。それとも、「私の言いたいことそれ~~」のような代弁をしてくれることなのか。

 

やっぱり経験とか自分の中で既成事実がないと共感できないのかもしれない。椎名林檎群青日和の「新宿は豪雨」とか「突き刺す12月と伊勢丹の息が合わさる衝突地点」とか、彼女の曲にはたびたび東京の地名が出てくることがある。(溜池山王とか)でも僕はあまり東京に行ったことはないし、伊勢丹がどうだったかなんてすぐ忘れるしこういうところで共感できない。新宿で豪雨にあったこともない、一体彼女の指す新宿とはどこなのか。

 

歌詞なんて意味が分からないくらいが一番いいんじゃないかって思ってしまう。PPAPのように。

僕はあのころアイドルが好きだった

最近ネットニュースで元アイドルが妊娠したとか、相手はマネージャー。大手のアイドルではないもののこれはファンからしたら驚天動地。「裏切られた!」って気持ちもわかる。僕も昔はアイドルが好きだった。過去形なんだけど。

 

今から9年前ぐらいだったか、秋葉原を拠点としたAKB48ができた。プロデューサーは秋元康という大物。よくは知らないけど大物。その時のことは記憶の断片として残ってる。それは夕方のニュースだったか、秋葉原でこんなのできましたよって感じで紹介されてた。今でいう地下アイドルのような感じだった。とうじ小学生だった僕は「へぇ~」と聞き流すぐらいだった。そのあとに引き込まれる魔力の強さを知らずに。

 

5,6年前のと。僕は相当精神を病んでいた。何もかも嫌で、何もしたくないぐらい。その時、僕はなぜかAKB48の曲を聞いてはまってしまった。それからAKBグループの虜になり、番組は必ず録画し、曲は聞き、メンバーの名前をすべて覚えるぐらいであった。そのつながりで他のアイドルのことも知りももクロベリーズ工房などを注視していた。

 

神7、AKBINGO、じゃんけん大会、握手券、総選挙。思い出すだけでも懐かしい。メンバーの写真が貼っているマグネット目当てにワンダのコーヒーを買ったりセブンイレブンでプロマイド目当てでお菓子買ったり。かなり貢いだ。推しメンの一挙手一投足を気にし常にブログを見たり番組を見たり、ツイッターをフォローしたり。ちなみに当時の推しメンは秋元才加、中塚智美、河西智美大場美奈だった。

 

初期のメンバーはほぼすべて卒業したと思う。また一人、また一人卒業していき。そして知るメンバーはいなくなり。知らない顔が多くなり。そういう感じで僕は段々と追えなくなりファンを「卒業した」のだと結論を出している。暫定的に。

 

様々なメンバーが入り乱れているAKBグループ。名古屋にSKEができ、そのあと博多にHKTができジャカルタや上海。いろんなところへ裾野を広げている。それから欅坂46乃木坂46ができた。最初は記憶しているところによるとAKBへの敵対組織として作られたと記憶している。そこからなんだか自分は取り残されていって距離を置くようになったと思う。メンバーが新しくできたグループに転出が起きたりで散々だったな。指原もスキャンダルかなんかでHKTに転出(左遷?)されたと覚えている。

 

AKBの一番の特徴といえるのかわかないけど、よく知られている「恋愛禁止」というルールがある。あるメンバーに彼氏がいる、と報道されれば、それが真実ならば、その人は卒業という感じだった。それで何人か卒業していったのを覚えている。過去の彼氏とのプリクラ、未成年飲酒。それらが発覚して卒業謹慎したメンバーがいた。少なくとも上記推しメンの中にもそのようなことをしたメンバーもいた。あるメンバーは坊主にして謝罪動画をYoutubeにアップしていた人もいた。だからって推しメンをやめなかったけど。

 

昔は「僕はAKBのファンなんだ」と言えば即オタクな扱いを受けていたような気がするけれども今は違うのかな。クラスやスクールカーストの中枢の方々でも「てち~~」とかツイートしている人も少なくはない。モデル業界に乱入したりなかなかオタクカルチャーに触れない人々にも触れられるようになったからかな、と。もうAKBは地下アイドルではなく国民的な「アイドル」になったのかな。

 

アイドルは僕たちの生活を脅かすことはなくならない。おニャン子クラブからモーニング娘、そしてAKBグループ。そしてジャニーズとか。脈々と受け継がれ行くこの文化。この先でもまた変わった形で顔を見せてくるだろう。時代が求めているから。それに答えを見せるために。そして、日本中が虜になる。僕が老人ホームでペンライトを持ちながら音楽番組を見ているかもしれない。そして安らかに眠る。いい人生だった、と。